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6 薄紅の夢

 

 

いつしか二年あまりの時が流れていた。西征から戻った大王のもとで、時折地方からの客人を迎えて宴が催されることがある。日嗣皇子の大碓は大抵その宴に同席していたが、小碓は特別に招かれることもなかった。もっともその方が気楽に思えて、小碓としては本意ではあったけれども。

 

 

宴の席が設けられている館の方からは人々の笑い声や歌舞音曲が洩れ聞こえてくる。ひととおりの朝の鍛練を終えた小碓は、久々に久礼波の所へでも出かけようかと考えながら、宮処の庭園内をぶらついていた。突然、茂みの中から彼の足下に跳び出してきたのは小さな兎だった。

 

 

(あれ?賄い所から逃げ出してきたのかな?)

小碓がその兎を素早く抱き上げた瞬間、いきなり光が懐に飛び込んできた…ような気がした。驚いて瞬きした小碓の眼の前に立っていたのは一人の少女だった。小碓と同年か少し年下くらいだろうか。息を荒げた様子で、少女が追っていたのはその兎だったとわかった。

 

 

「こいつは…きみの…?」

「違います。でもここにいたら食べられてしまうから、逃がしてあげようと思って…」

「大事な食材に逃げられたとあっては膳夫(かしわで=料理係)たちががっかりするだろうなあ…」

「だめ!食べちゃだめです!」

少女はいまにも泣き出さんばかりに眼を見開いて涙を浮かべている。小碓の胸が針で刺されたように痛んだ。鼓動がひとつ、強く打ったような気がした。

「わかった。じゃあ、こちらへ」

小碓は微笑んで兎を抱いたまま、少女と共に宮の外に向った。林の入り口で兎を放すと、兎はたちまちに木々の向こうへ駆け去った。

 

 

 

魂極る 弟橘媛

「ありがとう」

少女は朗らかに微笑んだ。そのまま黙って宮の内に戻るまでに、小碓は少女の髪からほのかに甘く香しい香りが漂っていることに気がついた。おそらくは今日の宴に招かれた客人の家族なのだろう。名前を聞いてもおそらく無理だろう。若い娘が自分の本当の名を告げる相手は生涯の伴侶と決めた男にだけだ。そう思っただけなのに、また少し胸が痛んだ。その痛みがなんなのか小碓本人にもわからない。ほんの束の間の少女との出会いがいつまでも忘れられない切ない記憶となって残った。

 

 

 

大和で暮らすようになってはや二年(ふたとせ)、馴染んだといっても懐かしいと思う気持ちは止められない。相変わらず美濃のことは夢に見続けていた。しかし、少女との出逢い以来、時折小碓は違う夢を見るようになった。

ふと気付くと見知らぬ館にいる。ほのかに漂う香りに誘われて歩むと、その館の一室で少女が眠っていた。気配に驚いて眼を覚ました少女は小碓の姿を認めた。小碓はなにか語りかけようとしたが、声が出ない。少女は初めはただ驚いていただけだったが、小碓の姿を確かめると安堵したようにほんのりと微笑んだ。不思議な夢だ。少女には小碓の姿が見えているようだ。しっかりと目線を合わせて、ただ見つめあうだけで、心の中が柔らかく暖かい薄紅の光に満たされたようになる。夢から醒めてもその暖かいものがしっかりと残っている。幸せな目覚めだった。

 

 

小碓の魂はある夜は美濃へ、またある夜はその少女のもとへ、とあるいは身体から抜け出して漂っていたのかもしれない。ある朝など、眼を覚ますと両道入媛が心配そうに小碓を覗き込んでいた。

 

 

「ああ、よかった…。眼を覚まさなくて…死んでしまったのかもしれないと思った」

やはり魂が離れていたのだろうか。しまった、と小碓は反省したが、いくら制御しようとしても心の底からの真摯な願いは正直なものらしく、夢を見る日々は続いていた。

 

 

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