熊襲から出雲へ。
長い西征の旅を終えて、大和に帰り着いた小碓王子。
あえて受けたヤマトタケルの名を呼ばれることにも慣れてしまった。
取りかえすことが出来ない罪を背負った名だというのに。
そのころの日代(ひしろ)の宮はただならぬ騒ぎに見舞われていた。
騒ぎというよりはむしろひっそりと皆が息をひそめていた。
宮の内に、あるいは都のそこここに無数の亡霊が徘徊している。
彼等はただ姿を見せるのみではなく、あきらかな害意を持って民人を襲った。恐怖から魂を失うものがいる。深手を負って死に至るものがいる。傷が見当たらないにも関わらず、瘴気に触れて命を落とすものがいる。
はじめの頃は勇敢に戦った兵士達も、いくら傷を負わせても死に絶えることがない亡霊にやがて怯えるようになった。亡霊の数は日増しに増えていく。それに反して警護の兵士達は斃れていく。
日代大王も夜毎に現われる亡霊の中に、かつて自らが弑した者たちの無数の姿を認めるようになった。いくら斬りつけても射抜いても、幾度も甦り襲い来る亡霊の群れ。やがてはその中に正体も知れぬ魑魅魍魎たちが混じるようになった。降り降ろされる牙や爪は幻ではなく、気を緩めて眠ってしまえば、たちまちに彼等の手にかかって命を落とすだろう。もはや幾夜、眠れずにいるのかもわからない。宮処の奥深くに神鏡が祀られている。その霊威を借りようと手に取ってみても鏡はなんの反応も示さない。大王は血走った眼を見開いて闇に襲いくるものと対峙している。
大碓王子もまた大王同様の危難に見舞われていた。はじめは気丈かつ勝ち気に剣をふるっていた大碓も、眠れぬ日々を重ねるにつれ、見るものすべてが亡霊に思えるまでに追い詰められていた。数少ない警護の兵士すら、彼には敵に見えるらしく、近寄ればたちまちに斬り付けられてしまう。
鎮魂の祈祷も一向に効を奏さない。真昼ですら死に絶えたように静まる都。
大和に近付くにつれて、その異様な気配は強さを増していた。そしてタケルは何かに呼ばれているような不可思議な感覚を覚えていた。
一足先に派遣した斥見(うかみ)の兵士の報告でタケルは都の変事を知った。噂は近隣の邑々にも伝わり、宮を中心とした都中に近寄ろうとするものもいない。人々はただ怖れおののいていた。
「本当に冥界のものたちの所業なんだろうか?」
ふとした疑問がタケルの口をついて出た。ヤマトに従属をよしとしない相手は数多い。力によって屈服することを余儀なくされた者達の中にはいつも反逆の心が息づいている。いままでにさんざんそれを味わってきたタケルには、その敵の正体が冥界に棲むものだとはどうしても思えなかった。
「表に見えるものだけに惑わされないことが得策だろうな」
弟彦はすでに静かに神経を研ぎすませていた。その静かな態度に触れるとタケルも冷静になる。ただ、ヤマトに近付くにつれ、呼ぶものの声は強くなるばかりだった。彼が持つ大蛇の剣に共振するものがある。
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「よう戻った」
日代の宮で大王に復命したタケルは父大王の憔悴ぶりに驚いた。父に無断で熊襲の王の名を受けたことなどを告げても、大王は曖昧に頷くばかりだった。
「なにやら慣れぬ香りがするようですが…」
「魔除けの香だそうだ。献上されたものだが、気分が落ち着く。だが儂は眠るわけにはいかない。それに乗じて襲い掛かるものがあるからな」
「今宵からは私が見張ります。どうぞお休みを」
大王に告げてひとまずその場を辞したタケルは兄のもとにも参じた。
「兄上、ただいま戻りました」
言い終わらぬうちに大碓の剣が彼の上に降り降ろされた。咄嗟に鞘ごとそれを受けて刃を防ぐ。
「小碓の姿で現われるなど、その手にはのらぬ!悪霊どもめ」
「兄上、しっかりしてください!」
押し返した勢いで大碓はあっけなく崩れた。彼もかなりの限界に来ているようだ。
「本物の…小碓か…?生きて…帰ってきたのか?」
「悪霊などではありません」
大碓は瞠目したあと、笑い出した。くぐもった昏い笑い。
狂気じみた兄を見ながらタケルは息をついた。兄の部屋にも大王の部屋と同じ香の匂いがする。胸が苦しくなった。さらに宮に入ってから、あの呼ぶ声は強まる一方だった。眼には見えない。耳にも聞こえないが、タケルの剣は強い共振を起こして震えている。それはすでに無視出来ないほどの強さになっていた。こんなことは初めてだと思う。
兄のもとから辞して、ひとたびタケルは心を空白にした。どこに敵が潜むかわからない状況でそれが出来たのはすぐそばに弟彦がいる信頼感があるからだ。ともすれば浮遊しやすいタケルの魂を肉体にしっかりと繋ぎ止めてくれるのは弟彦だった。他の誰にも不可能な絶対の信頼。
頭の中に響く呼び声と剣の振動を頼りに意識を飛ばせる。頭の中に閃く光がある。
「…あれは…神鏡?」
眼を開けたタケルはまっすぐに宮の奥に進む。いつの時代のものだかわからない、古い神々の打ち捨てられ、崩れかけた祠があった。タケルが近付くと一瞬まばゆい光が彼を射抜いた。剣がひときわ高い唸りを発した。タケルが恭しく神鏡を手に取ると、やがてそれは満足したように沈黙した。
「これは宮処の奥に祀られているはずだよな」
それは弟彦でも周知のことだった。
「けれどもここにあるということは…」
「ここまで運ぶのは生きている人間にしか出来ないだろう。やっぱりな」
こんな身近なところに悪意を持つ人間がいる。これだけの反抗、叛意。タケルはため息をついた。一瞬、自分の進む道に対しての迷いがまたも生じかけた。
しかし、タケルが迷いに心を取られる暇もなく、宮から上がる人々の悲鳴がそれを打ち消した。いつのまにかあたりは夕暮れの薄闇に染まりつつある。タケルと弟彦はその悲鳴の場所に駆け付けた。
正殿の前庭の地面から多くの邪霊が姿を現そうとしていた。庭一面に立ち篭める、あの香の匂い。大王や大碓もその場にいたが、警護の兵士達がそのまわりを取り巻いて、果敢に戦っていた。だがいくら斬り付けても消え去ることがない死者の霊はいくらでも数を増やしていた。瘴気に触れたのか、倒れていく兵士がいる。
邪霊の群れに一本の矢が飛んだ。その矢に倒れたモノは二度と起き上がろうとはしない。弟彦の矢に併走するようにタケルが剣を振るった。あの香には幻覚作用がある。それに気付いたタケルは視力を頼りにしない感覚で的確に刺客を仕留めていく。
しかしその場の多くの人間はやはり眼に見える亡霊に惑わされ、それを怖れている。怖れのあまりに眼を閉じることも出来ないでいる。
「キリがないな」
弟彦が舌打ちした。その時、タケルの心に閃いたものはあの神鏡の光だった。大切に懐に入れていた神鏡をタケルは片手で取り出した。折しもその日の最後の残照が西の山に射そうとしている。その光はまっすぐに鏡に反射して邪霊の群れを射た。閃光に焼かれたように消えていく霊たち。
そして残ったものはやはり生きている人間だった。
「殺すな、弟彦!」
刺客の正体を問い詰めたかった。
が、彼等は残らず自決していた。あるものは毒を飲んだか、あるいは舌を噛んだか。
(しまった…!)
タケルは唇を噛む。
気を取り直して振り返ると、その場にいた人々が我に返り、ひとりが跪くのを合図のようにやがてすべての人々がその場に叩頭していった。茫然自失する大王と大碓王子を除いて。
タケルにとってはいままでに経験してきた多くの危難のうちのひとつにすぎなかった。しかし、その場を納め、人々を救ったその行為が大王と大碓には大きな畏れにもなった。あの場のタケルの行為は人々の眼には神威と映ったことだろう。正体のわからぬ敵よりも神威を自分のものとするタケルの存在が恐ろしく思えた。
(あれはいつか儂に徒なすかもしれぬ)
大王は危惧した。
(あの力、もしも敵対するものに取り込まれてしまったら…)
(あんな力を見てしまえば、父はあれを日嗣皇子にしたいと思うかもしれない)
嫉妬とないまぜになった感情が大碓王子を襲う。
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ヤマトに帰りついたタケルが存分に旅の疲れを癒すことも出来ずに、引き続いての東征を命じられたのはそれからいくらもたたない頃だった。
はあ…疲れた。たかだかシーンの説明をするだけにこんなに文章が必要だとは思いませんでした。
こういう場面を想定した絵を描いた自分が悪いんですけど(汗)
以前から考えていたわけではなくて、なにか必然的にぽこっと浮かんだ場面なんですね。
だから自分で書いていても謎は残ります。
またいずれ改めてその謎を自分で解いていく機会もあるかなあ、と。
ほとんど文章の推敲はしていません。あとから少しずつ手を加えていくことになると思います。
不本意な形の発表で申し訳ないです(汗)力尽きました…。
実は文章だけじゃなくて絵の方もかなり不本意だったりします。
どう考えても鏡の反射が変なんだもん(汗)こういう構図にしてしまったのが失敗でした。
邪霊の群れはもっと一杯描きたかったのですが、これも気力が尽きました。
部分的にコラージュしたりして、苦労したわりには迫力もなくて哀しかったり。
またまた自分に対しての課題が増えてしまいましたよ(汗)
でもこれから先の作品が全部こういう形になったらしんどいので、
いつもこういう形にはしないでおこうとは考えていますけど。
そのうち自分のキャラで遊んだりするかもしれないです(笑)
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