平安王朝Gallery

いへづとに 花をつつみてかへるさは 匂ひぞ袖にもれて散りける さくら狩り 雨は降りきぬおなじくは 濡るとも花のしたにやどらむ 散りまがふ 花にこころのうつりつつ 家路をさへも忘れぬるかな 暮れぬとて 立ちこそかへれ 櫻狩なほゆくさきに花を残して けふもまた 飽かぬながめに 暮れはてぬあはれ立ち憂き花のかげかな
花に眠る
行き暮れて 木のしたかげを 宿とせば花やこよひのあるじならまし もろともに 我をも具して散りね花 うき世をいとふ心ある身ぞ 願はくは 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ 仏には 桜の花をたてまつれ 我がのちの世を人とぶらはば
花に眠るー杏珠

西  行ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。

俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9世孫。

 

佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、

また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。

 

16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。

保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に

鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。

和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)

23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、

しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。

 

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、

久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入る。

仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。

このとき讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。

讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられ、これは後代に

上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。

 

なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。

後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。

文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、

この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。

 

伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)に庵居し、

建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。

かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と

詠んだ願いに違わなかったとして、

その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

2003年に同じタイトルで、若くして亡くなった方への追悼の作品を描いたことがあります。

今回のこれは自分自身の死に際しての理想を西行の歌に重ねてみたものです。

そうしたら幸せな表情をしてるんですよね。私にとって「死」は忌むべきもの、悲しむべきものではなく、

制限のある肉体からの魂の解放を意味しているに他ならない、と強く実感しました。

だからそういう意味での幸せな死=永遠の眠りがあってもいいんじゃないかなあ、と…。

なんだか今の私だと「ああ、やっと自由になれる」と嬉々として赴きそうな気すらします (^_^;)

重いテーマのようではありますが、誕生と表裏一体ですからね。

同様に語られてしかるべきものだとも考えております。

2014年、桜Exhibition参加作品。華やかな桜はいつもどこかで「死」のイメージを内包しています。

こういう花も珍しいかもしれません。

日本人の心性を伝えるにはそういう部分も欠かせないような気がします。

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